さわやかサバイバー

好きな作品の感想を書いています。カテゴリー一覧は50音順で並んでいます。

いま集合的無意識を、

神林長平さんの「いま集合的無意識を、」(ハヤカワ文庫)を読みました。

若くして亡くなったSF作家の伊藤計劃と名乗る存在との「さえずり」上でのやりとり、

という形で語られる表題作と、いくつかの短編が収録されてます。

 

私が一番興味をひかれたのは表題作にもなっている

「いま集合的無意識を、」でした。

 

3・11を経験することなく亡くなった伊藤計劃先生と彼の作品に関する神林先生の考え、

初期のパソコンとは異なり、もはやスタンドアローンではありえなくなった

「機械」に対する思い、

生まれた時からそれらがあることが、ネットワークに繋がっている事が

当たり前の世代への言葉、

そういった事を題材に「意識」について書かれています。

 

と、書いてしまうと私の力不足で

なんだか固そうなお説教くさい内容に思われてしまうかもしれませんが、

あくまで一人のSF作家、神林長平としての立場から書かれており、

言葉をつくして状況を認識しようとする姿勢など

今までの小説に書かれていたエッセンスが全体から感じられ、

小説では無いものの、やはり「神林作品」のひとつとして楽しく読めるものでした。

 

ツイッターの事であろうと思われる「さえずり」を神林先生がしている最中に

画面に異変が起こり、伊藤計劃と名乗る存在が現れる

という始まり方をしている「いま集合的無意識を、」は

ノンフィクションとは言えないけれども、

普段の神林先生の考えが窺える部分も多々あって興味深かったです。

どこまで本当かどうかは分かんないですけどね。カラスにガン飛ばしてるとか(笑)

 

以前から「機械」というものに対して多くの作品を書いていた神林先生が

今のネットに繋がなければ使い物にならないパソコンをはじめとする通信機器に

愛着を持ってないのは最初意外に感じました。

 

しかしこの本の最初に収録されている「戦闘妖精・雪風」シリーズのスピンオフ

「ぼくの、マシン」の零と同じように、どこがどうなって動いているのか把握しきれない

得体の知れないものとしての「機械」に愛着を感じられない、

という所を読んでなんだか納得。

こういう感覚もやはりパソコンや携帯があって当たり前な世代からすると

よく分からない感覚なんでしょうか。

 

 

神林先生は<リアル世界>をシミュレートする

ヒトにとって最も基本的な<フィクション>を<意識野>、

そこに投影される<わたし>を発生させているものが<意識>と定義しています。

 

<意識>がなければそこに投影されるべき<わたし>も消える。

<リアル>を解釈するための<フィクション>、

<リアル>に対抗するための<フィクション>。

 

神林先生は<リアル>を生き抜いていくために必要不可欠なものとして

小説という<フィクション>を作りだすことを自負を持って、責務と思って

続けてきたと語ります。

 

「人生五十年、あとは余生だと思って」と冒頭で語る神林先生が

伊藤先生の作品を通じ<意識>についての考えを

「さえずり」上に現れた存在を相手に語りあい、

<意識>の先を探し求めていくことを宣言し

「もう大丈夫だ」と最後に打ち込む流れはぐっときます。

 

叶わなかった<リアル>での伊藤先生との語らいに対する思いに対処する為の

<フィクション>であるこの作品。

確かにこれは作家として、神林長平としての追悼の形だ。

 

そして最後の一文でニヤリ。

 

あと面白かったのがネットでのコミュニケーションツールを

「体外に出た<意識野>そのものに見える。」と書かれている所。

そこには沢山の<わたし>が投影されていて、

全体を見れば人類全体の集合的な<わたし>にも見えると。

それを無自覚に使っていれば<フィクション>の暴走が起きる、

いまだ人類はそれをコントロールする術を見つけていないのだ、と。

 

それこそ小説や新聞など情報を発信する媒体において

沢山の<わたし>が昔から存在し、それは<リアル>にも影響を及ぼして来たと

思うのですが、それらとネットでのコミュニケーションツールが異なるのは

より発信する側の人が増えたからでしょうか。

 

今回この記事は私自身がこの作品に対して整理したいのもあって書いたのですが

この辺は特にまだ整理しきれていません。

ネットでのコミュニケーションが「言葉」でやりとりされる割合が大きいのもあるのかな。

「言葉」についてもずっと書かれてきた神林先生だし。

 

「外部に移した自分の分身」に操られる、という所は「帝王の殻」を

ちょっと思い出してもみたり。

 

私にとって整理出来ないながらも感想を書いてみたい、という

エネルギーを持つ作品でした。

<フィクション>には熱量があるのだ、ということを

感想を書くという行為によって、今ここで手に取るように感じさせられています。