さわやかサバイバー

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少年ハリウッド 第20話メモ

少年ハリウッドの感想メモです。

第1期(第1話~第13話)視聴済み。

小説版の内容に触れることもあります。ご了承ください。

 

 

「僕たちの延命」

 

私は今までカケルやマッキーの最初からアイドルになりたいと

思っていた訳ではないゆえの感覚の近さや、

だからこそ気付けることがある感性が好きでしたし

そういう所はそのままでいいと思っていました。

キラのようにはっきりしたイメージを持ち意識高く活動していくことは

もちろんプロとして非常に大事なことです。

しかし「こうあるべき」という枠を持っていないカケルやマッキーの視野は

思ってもみなかった答えを見つけることができ、

少年ハリウッドの可能性を広げることができるものとして

これからも引き続き必要だと思っていました。

 

しかしシャチョウはそのままでは満足しない。

アイドルは本当の自分とファンの想いが交わった虚構の存在ではあるものの

ステージを離れても、全身全霊でアイドルであれと言う。

自分自身で自分はアイドルだという気付きを深め、意識を変えていけと言う。

他人の存在の在り様、生き方を変化させてしまう、見方によっては恐ろしい行為です。

しかしそれはまた、アイドルとして彼らが誕生することに関わった人間として

できるだけ長くアイドルで居続けさせるための愛情や責任感から来る行為でもあります。

人は変化する。状況に慣れていってしまう。

だから同じことを続けていく為には変化し続けていかなければならない。

相反する印象を持つシャチョウの言葉と行動は今回

与えた居場所を奪うことで新しい場所へと導くという、マッキーへの行為でも表れていました。

 

シビアに思えても、唐突に感じても、一見意味不明でも、シャチョウの言うことはいつも正しい。

アイドルとして彼らがもう一皮剥けなければ、

現状に満足せず自らもっと輝くことを目指さなければ、先は無いのはよく分かります。

しかし荒療治とも言えるようなセンターの交代をして本音を引き出させ、

メンバー全員が「なんとしてでもアイドルでいたい」と思う方向へ向かわせるのは

正しいのだろうか。

彼らが本来持っていた視野を狭めることになりはしないのだろうか。

「こうありたい」と思う意思と「こうでなければならない」という枠にはまった考え方は

また別の次元の話なのだろうか。

ここの所がまだ引っかかったままで、なんとか自分の中で納得つけようと

ゴネゴネ考えてて今回なかなか感想に取り掛かれませんでした。

今も引っかかったままではあるのですが、それは一旦そのままで見続けてみようと思います。

あとたぶん私は寂しいんだと思います。

どこにでもいそうな普通の少年だった彼らの、なんてことない会話のほほえましさが大好きで、

成長はしてほしいけど、そういうとこから離れていってしまう気がして。

だけど、そもそも成長とは何かを捨てていくことでもあります。

一つの可能性を伸ばすことは他の可能性を潰す一面も持っている。

喪失なしに成長はあり得ないのかもしれません。

それが痛みを伴うことを、一人の人間にとって決して軽いものではないことを表現するために

今回の実に細やかな表情の描写の数々があったのではないでしょうか。

それは見ていた私にも強い印象を残しました。

傷つきながらもさらけ出された強い想いを知ってしまっては

こちらも覚悟を持ってそれを受け入れていかなければいけないんだろうという

思いを抱かされました。

 

そのくらいマッキーのあの本音の叫びは重い。

シャチョウは明らかにメンバー全員へ

特にマッキーと同じようにアイドルに対して「どうしても」が足りないカケルへ

自分の中にその想いがあるかどうか考えさせ、

今この時がいつまでもあるものではないことを思い知らせようとしています。

マッキーのアップの場面、あの後も剥き出しの言葉は続いていて

もっと彼の表情が映し出されても不思議ではないと思いました。

しかし画面は受け答えするシャチョウや他メンバーの反応へと移ります。

マッキーに本音を語らせること、

その内容がマッキーだけでなく他メンバーへの気付きのきっかけとなること、

シャチョウの意図と重なるようにカメラも切り替わっていたんですね。

 

メタな話をすれば、この役割を与えられるのはマッキーでなければならなかった

のだろうなと思います。

元から目立ちたい欲があるメンバーであれば、センターが奪われるという話になった時

「いつか取り返してやる」というドラマは描けるでしょう。

しかしもともとアイドルになりたかった訳でもなく、

センターがやりたかった訳でもないマッキーが

手放さなければならなくなった時に初めて自分の中のその場所の存在の大きさに気付く

という話だからこそ、よりその想いの深さを実感できる。

それは上に書いたようにマッキー自身だけでなく、

他メンバーや視聴者に対しても大きい影響を持っている。

また、マッキーが受け入れる器を持っているからこそ課せられた試練だったのだろう

とも思いました。

マッキーの居場所が欲しいという個人的な欲求は

少年ハリウッド」という場所を手に入れたことで

他メンバーを守ることが自分の願いと変化していきました。

「アイドルのマッキー」は他人の為に存在していた。

それが今回センターという場所を奪われたことで

「アイドルのマッキー個人」が望むものがあらわになった。

「みんなのため」を経て再度個人的な欲求へと道を辿ったマッキーが手に入れた

新しい居場所。そこはシャチョウが言ったように彼だけのものです。

マッキーにしか手に入れることができない視点。

そこから何を見つけるのか、これから楽しみにしていきたいと思います。

 

今回マッキーには初めを思い起こさせる場面がたびたび入りました。

帰りにカケルとだらだら喋るのは久しぶり、と話す場面は第1話を、

センターから外される、自分の居場所を奪われることを宣言される場面は

第2期の第1話に当たる第14話の悪夢がそれぞれ思い起こされました。

また、シャチョウの台詞として「アイドルにとって一番恐ろしいものは時の流れと慣れ」と

いう言葉が出てきます。

これらから私の頭に浮かんできたのは「初心忘れるべからず」という言葉でした。

能の大成者・世阿弥の言葉で、初めの志を忘れてはならないという意味で使われますが

調べてみると本来の意味は違うようでした。

「ぜひ初心忘るべからず」「時々の初心忘るべからず」「老後の初心忘るべからず」と、

人生のその時々の段階の初心について表していたようです。

(WEBサイト「the能ドットコム」より)

この中の「時々の初心忘るべからず」については、歳とともに積み重ねてきたものを

その場限りで忘れてしまうのではなく、その段階に初めて到達した時のことを忘れず

次の段階へ進むことが大切、という意味のようでした。

ハリウッド東京のエンブレムにあしらわれていたり、

連動ユニット「ZEN THE HOLLYWOOD」の名前の中の

「ZEN」には「Never Ever Zero」、常にゼロに立ち帰るという意味が

込められているのだそうです。

初めを思い起こさせる場面が入ってきても、センターで無くなったとしても、

マッキーは少年ハリウッドの活動を始めた時のマッキーに戻った訳ではありません。

今回マッキーが立ち帰ることになったゼロはアイドルとしての活動を続けてきた上でのゼロ、

「時々の初心」に当たるものなのではないでしょうか。

今回の気持ちを忘れてしまっては、また新たな状況に慣れてしまっては

アイドルとしての死が待っています。

常にゼロに立ち帰ること、何かを終わらせ、そこからまた始まることにこそ

永遠が宿るのだという、逆説的な理論が

この作品で描かれようとしているものではないのかと思ったのですが、どうでしょうか。

 

その他にも世阿弥の言葉では「住する所なきを、まず花と知るべし」という言葉があって、

停滞することなく、変化することこそが芸術の中心である、という意味だそうです。

これなんかも今回のテーマとドンピシャで、さすが第一級の芸術論だと感じました。

少年ハリウッドのアイドル論はすごく深い所まで斬り込んで考え抜かれているので

いずれ風姿花伝などと照らし合わせてみたいと思っています。面白そうだー。