さわやかサバイバー

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風姿花伝の言葉から見る少年ハリウッド

風姿花伝・三道」(世阿弥著・竹本幹夫訳注 角川ソフィア文庫)より

引用させて頂いた世阿弥の芸術論と

少年ハリウッド」のシャチョウによるアイドル論や作品中における展開の中で

重なると思われる所を抜き出してみました。少年ハリウッドはアイドルを扱う作品ですが、

「アイドルであるということは、アイドルになるということはこの世にとってどういうことなのか」

を非常に深く掘り下げているので、かえって普遍的なテーマに触れていると感じる所が多く、

能について書かれていながら、第一級の芸術論でもある風姿花伝と比較してみると

面白いのではないかと思ったからです。

考えが足りず、本来意図されていることとはズレている所もあると思いますがご容赦ください。

 

 

いかなる上手なりとも、衆人愛嬌欠けたる所あらむをば、

寿福増長の為人とは申しがたし。

 

シャチョウ:「出来ているのはキラだけ。でもそのステップには可愛げが全然ない」

 

 

 

されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。

 

時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、

そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。

されば、久しからねば、天下に名望少なし。

ただ、まことの花は、咲く道理も散る道理も、心のままなるべし。

 

花は心、種はわざなるべし。

 

シャチョウ:

「スキルのないアイドルは若さを失ったら終わりですからね」

「若さだけでかろうじてアイドルと呼べるだけ」

 

ゴッド:「17歳、です!」

 

 

 

花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。

いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲く頃あればめづらしきなり。

能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。

 

いつもの音曲なれども、なほ故実をめぐらして、曲を色どり、声色をたしなみて、

我が心にも「今ほどに執する事なし」と、大事にしてこのわざをすれば、

見聞く人、「常よりもなほ面白き」など、批判に合ふ事あり。

これは、見聞く人のため、めづらしき心にあらずや。

(言葉が難しいので現代語訳も引用します:

いつも歌う謡であっても、いつも以上に秘事を尽くして、節回しを飾り、声調を工夫して、

自分の心中でも「今ほど一生懸命の時はかつてなかった」と思うほどに、

細心の注意を払ってこれらの演技を行えば、観客が「いつもよりずっと面白い能だ」

などと言って、好評を博する場合がある。

これは観客にとって、新鮮な感動があったということではないだろうか。)

 

シャチョウ:

「アイドルにとって一番恐ろしいものは、時の流れと慣れです」

「センターが変わるという、そこに本質はないんです。

 そんなことを続けても結局アイドルは消費され続け、ファンもいつかは飽きる。

 私が守りたいのは彼らです。

 彼らが今の状況に慣れてしまったら、アイドルとしての死が必ず訪れる。」

 

「彼らは今、一生に一度しか歌えない歌を歌っています。

 本当は毎日がそうなのに、人はすぐそれを忘れてしまう。」

「慣れは人を曇らせる。」

 

ハリウッドルール:二、いつもこの瞬間を最後だと思うこと。

 

 

 

物まねを極めて、その物にまこと成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。

 

<以下、「新編日本文学全集」(小学館)花鏡の箇所より引用>

 

申楽も、色々の物まねは作り物なり。これを持つは心なり。

この心をば、人に見ゆべからず。もしもし見えば、操りの糸の見えんがごとし。

かへすがへす、心を糸にして、人に知らせずして、万能をつなぐべし。

かくのごとくならば、能の命あるべし。

そうじて、即座に限るべからず。日々夜々、行住坐臥に、

この心を忘れずして、定心につなぐべし。

かやうに油断なく工夫せば、能いや増しになるべし。

(言葉が難しいので現代語訳も引用します:

猿楽の芸も、数々の物まねなどの「態」は、いわば操り人形と同じく造り物に過ぎない。

これをはたらかせるのは演者の心である。この心を、人に見せてはならない。

もし見てせては、操りの糸が見えてしまうようなものだ。

あくまでも、心を糸にして、人にはその存在に気づかせないで、

心の糸ですべての態をつながなくてはならぬ。

それができれば、その人の「態」には生命が宿るであろう。

右の心がけは、演能の場だけに限るべきことではない。

毎日毎夜、日常生活のすべての行動にも、この心がけを忘れないで、

いつも心で行動をつなぐようにせよ。

このように常に油断なく研究すれば、能はますます向上するであろう。)

 

シャチョウ:

「何かに成り切る力がない君たちが、どんなに歌おうが踊ろうが、

 アイドルに成り切れない人間が人の心を打つことはできないでしょう」

 

「全身全霊、食事をとる時も、眠っている時の呼吸ですら、

 アイドルのものだと思って過ごしてみてください」

 

小説版:

「本物の選ばれた人間になるには、ひとつ大切なことがあるんです。

 それは、本人が自分のことを選ばれた人間だと認めること。」

「自分を選ばれた人間だとひとたび思った瞬間から、何もかもが変わるんですよ?

 それを感じればいいんです。食べる物の味は変わり、肌の感覚も変わり、

 見える景色や色さえも変わるんですから」

 

マッキー:「さて、次はカケルだな。『少年ハリウッド』のモノマネ」

 

 

 

妙とは「たへなり」となり。「たへなる」といつぱ、形なき姿なり。形なき所、妙体なり。

(略)

しかれども、また、生得、初心よりもこの妙体のおもかげのある事もあり。

その為手は知らねども、目利きの見出す見所にあるべし。

ただ大かたの見物衆の見所には、「何とやらん面白き」と見る見風あるべし。

これは、極めたる為手も、我が風体にありと知るまでなり。

「すは、そこをする」とは知るまじきなり。知らぬを以て妙所といふ。

少しも言はるる所あらば、妙にてはあるまじきなり。

(言葉が難しいので現代語訳も引用します:

妙所の「妙」とは「たえなり」ということだ。そして「たえなる」というのは、

具体的に把握できない、形を超越した姿の形容である。

従って、形がないことが、「妙」の本質なのだ。

(略)

しかしまた、生れつき、まだ初心の段階から、

妙なる風体に類似する効果が発揮されている事もある。

その場合、その為手自身は自覚できないが、目の利く観客がそれを見抜くだろう。

また、普通一般の見物衆の目には、「なんとなく面白い」と感じる形で発現するであろう。

この妙所は、奥義を極め尽くした為手でも、自分の芸にはそれがあることを知っているだけで

「さあ、今が妙体の芸だ」とは認識できないはずである。

自覚できないからこそ妙所と言うのであり、少しでも具体的に指摘できるようでは

それは「妙」ではないはずである。)

 

テッシー:

「シャチョウがセンターをお決めになる時の一番の基準は何ですか?」

シャチョウ:

「良さを、言葉では説明できない存在が、センターにふさわしいんですよ」

 

小説版:

「新曲のセンターはシーマでいきます」

(略)

だけど、なんでだろう。

シーマが選ばれた時に、だろうなと思った。

説明できない何か。

シーマにはいつもそれが漂っている。

 

 

少年ハリウッドの引用の方は今私が「こんな言葉あったな」と思い当たる所のみを見返して

確認して書いたものなので、全部ちゃんと見返すとまだ当てはまる所があるかもしれません。

ひとつの道のみを突き詰めながら、それは観客があってこそのものだという、

狭いようで開けている視点が両者ともにあるから共通する所があるのかなと思いました。