さわやかサバイバー

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コンクリート・レボルティオ~超人幻想~ THE LAST SONG 第24話(最終回)感想

「君はまだ歌えるか」

 

 

続きからネタバレ感想

 

 

ウルティマ・ポリスにおける超人同士の壮絶な戦いの火蓋が切って落とされ、

爾朗と里見の真意が明らかになりました。

そしてその中でとうとう自分のことを「超人」と認めた爾朗。

ここは風郎太とシンクロしてました。

と同時に心底嬉しそうな風郎太の様子が視聴者としても嬉しくって。

 

私は爾朗が自分の内側に湧き上がってくるものを根拠に

そうなってほしいと思っていたのですが

正義を求める心を下らないと笑う里見の考えを悪とし、

立ち向かうものがいなくてはならない、

それは自分だと覚悟した時にその瞬間はやってきました。

これはこの作品における正義と悪の考え方が

お互いがあって初めて存在するものだからかもしれないし、

この時代における正義と悪がそうであったからかもしれません。

ただ単に私の考えがまだ浅いだけかもしれず、

引き続き考えていきたいと思った場面でした。

 

爾朗が決意し、里見に命を懸けでまで戦って抗い示そうとしたこと、

それは複雑に入り組んだ白黒はっきりしない神化世界や

その点では同様の私たちの世界の苦しみを

すぐさま救ってくれるような具体的な力を持つものではありません。

第1期の終盤でクロードに問いかけられたことや

これまで出会った人々のただ一つ信じられるものはあるのか、という苦悩に

直接的な答えが見つかった訳でもないと思います。

物語の上でも里見が持つバイオデストロイヤーという具体的かつ現実的な力によって

今の体を失ってしまうという容赦のない結果が待っています。

そんな現実の持つ厳しさを描写しながら、

人が正義を追い求めることは決して無意味じゃない、

人がどうしようもない現実を生きるために超人を求めるなら、

それは叶うことがあるかもしれないということを、

ただそうであればいいよね、という望みで終わらせるのではなく、

爾朗が自分自身で認めたことであの場に確かに「超人」が生まれたことや、

里見を退け、人々の超人への想いを守ってくれたこと、

エネルギー体となり今の形は失われるけど

人の求めにより戻ってくるかもしれないことなど、

それまで積み重ねた設定、爾朗が感じてきたことの全てで見せてくれました。

爾朗や他の人々が辿ってきた道、それらが全部があってこの結末になった、

それが実感できる素晴らしい結末でした。

彼ら・彼女らの苦悩や喜びをずっと見て来たから、彼ら・彼女らの選択の結果

ほんの少し良くなったように見えるあの結末が嬉しいんだ。

 

 

さらに笑美たち妖怪が旅立った世界、

超人がフィクションの住人のように愛されるようになった神化世界、

どちらもが「ひょっとしたら私たちの現実世界と繋がっているのかも」と

感じられる仕掛けがまたたまらなく嬉しかった。

これまで私ならどうだろう、私にとって正義とはなんだろうと

自分の身に置き換えて考えさせられるようなことはたくさんありました。

それはあくまでこちらから向こうに向ける視線のようなものでした。

しかしこの仕掛けによって

「こちらはこう選んだ、君はどうだ。抗い続けられるか、歌っているか」と

向こうからこちらに声を掛けられたように感じたのです。

一方通行のコミュニケーションしかない、そんな安心して楽しめる枠を越えて

「君が望めば、忘れなければ、超人は現れるかもしれない」という

双方向の繋がりを作られてしまった。「私の物語」の一部となってしまったのです。

 

最終回で里見は爾朗と同じ様にして生まれた存在だということが明かされました。

爾朗の対、悪であることを表すと同時に

爾朗もいつ里見のようになってもおかしくない可能性を表していたように感じました。

鏡映しの存在の里見が超人としての能力を使って

不老のまま(よっぽどのことがなければ不死でもあったのかもしれません)

正義や超人や物語への想いを笑う、現実的な力を持つ大人の姿であり続けたことは

人がそれらの想いを諦める時の一番の要因が外部の圧力ではなく、

その人自身が諦めてしまうかどうかなんだと言われているようにも思えました。

爾朗が「初めてでもない、たぶん最後でもない」と言っていたように

生きていれば、歳を重ねるにつれ、「諦めろ、現実を見ろ」という

外からの、そして自分の内側からの声は繰り返し、

次第に大きくなっていくものだと思います。

しかしそれに抗ってくれというメッセージを

フィクションという、現実を反映しながらも現実ではない、

人の想いによって生み出され続いていく世界の住人が

現実に向けて発し、それが届くと信じて描かれていることは

この作品を作られた方々携わった方々のフィクションへの強い想いが

反映されている仕掛けだと感じました。

 

それを強烈に受け取ってしまったら、その流れに取り込まれたということなのでしょう。

製作者の物語への強い愛情を感じさせられ、いつのまにか受動的に楽しむという以上に

現実と物語の豊かな双方向のコミュニケーションの担い手となってしまう「体験」となった

忘れられない作品となりました。

それほどにのめり込んだのは

物語や登場人物が魅力的で大好きになってしまったからでもあります。

制作に携わった全ての方々、ありがとうございました!

元ネタとか色々濃い作品だから設定資料集が欲しいです!(物欲で〆)

 

 

以下箇条書きで色々

 

ジャガーさんがあちら側にいたのは、

いざという局面で自分の存在そのものを切り札にするためでしたか。

(第20話の笑美と似たような戦法ですね)

これって、最後の最後には爾朗が正義の超人となると信じてたから

取れた行動ですよね?

理想を追い求め立ちすくむ爾朗を時に殴り飛ばしたり

自分の立ち位置を覚悟を持って決めて行動を起こしたり

ずっと己の姿で指針を示して、爾朗を信じて見守ってきたってことでしょ?

もう結局ジャガーさんが一番甘かったんじゃないのと思ってしまいました。

小説「神化三六年」を読んでると、ドライな態度の奥底には

超人への純粋な想いがあることは知っていたので信頼はしていたのですが

ただ単に憧れるばかりではなく、自分の足で一歩踏み出したその瞬間に

同じ夢を持つ者同士として認めるというのが良い兄貴分だなという感じで

素敵でした。ウィンク含め(ハンサムの超有効活用だった)。

第10話ラストの上司の微笑みの意味が回収されたのも嬉しかった。

彼女もまた私たちが見てきたジャガーさんと同じものを追い求める人だったんですね。

 

・一方でお互いがお互いに幻想を見ていた輝子と爾朗の二人は

輝子がとうとう「勝手に今の私を否定するな」と言ってやりやがりました(笑)

無垢な存在を守る超人は幻想か、そんな守るべき無垢な存在も幻想なのか、

メインを張る二人だけに、作品の大きなテーマを背負っているし

ここのやりとりに様々な意味が読み取れそうだけれども

テーマうんぬんは置いといても、二人が意志を持った人物として

ちゃんと言いあえる対等の立場になったことが単純に私は嬉しかったです。

「今の私を否定するな」って言葉も結局は

爾朗と出会ってからこれまでのことを肯定してくれてるってことなので

やっぱり愛されてるんですよねこの野郎。

時代や歳を重ねることによる変化も逃げずに描いてきたこの作品で

大人になった輝子の、子供の頃からの変わらぬ想い・変わった想い全て含めて

爾朗が正面から受け止めたここが二人のスタート地点だと思ったので、

そこから先へ進めるためにも早く戻って来いこの野郎。

 

・爾朗が笑美の庇護を離れ、対等になったからこそ、

二人は離れることとなったのかなと思います。

姿映しの能力でどんな姿にでもなれる笑美が取った「大人の女性」という姿は

本来の彼女のものではなかったことは端々からうかがえます。

それでも彼を守るために彼に真実を知らせずにいた彼女の行動は

母親の面があったし、その点で対等ではなかった。

いつかは離れなければならなかったのでしょう。

ただ愛情は本物だったし、忘れないとした爾朗とこの作品の優しさが好きです。

 

・人の想いによって生み出される存在のオバケである所の風郎太。

彼は視聴者である私たちの想いも反映してくれているかのように

結構自分勝手な人たちの中で割とフラットに立ち回ってくれ、

素朴で素直な優しさをいつも見せてくれていました。

厳しい展開も多い中でそれがどれだけ嬉しかったか。

何度か書いていますが、本当に彼がいてくれてよかった。

彼だってカムペとの一件で成長できない悲しさを秘めているのですが

爾朗がそれでも無垢の象徴であってほしいと願うのも分かる

澄んだまなざしの持ち主でした。

そんな彼もたくさんのことを経験し変化しているのですよね。

不変であることを嘆きながら変化を避けられない変わらぬ優しさをもつオバケ。

開始当初の印象からするとずっと複雑で、でもずっと好きになったキャラでした。

 

・風郎太が人の想いによって生み出された存在だというのが

他の所でも一段と効いていた最終回でした。

犬や赤ちゃんにしか見えない神化53年の状況は

超人が現実に存在することが人の心から忘れかけられてるってことなんですよね。

冒頭でそれを見せておいてから

大人になった博之くんが風郎太の姿を見つけるというのが

泣けるし希望があってすごくよかった。

「弟」だったガゴンを大人の都合で失った彼は

けりを付けるために超人や怪獣を忘れても無理はないと思うんです。

それでもキーホルダーにしてるくらい忘れずに過ごして成長して

家族を持つ立派な「大人」になってもオバケを見つけてくれた。

彼一人じゃなくて、人々がまた超人を思い出すように、忘れないように動いているのが

ガゴンの時は利用するばかりだった東﨑さんだというのがまた感慨深いです。

人の心に超人が残り世に復活する兆しを見せている希望が

ただの人である二人の行動によって描かれてるのが

メッセージとエールが詰まってるなと感じました。