さわやかサバイバー

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ワールド イズ ダンシング 第3巻感想

少年期の世阿弥を描く漫画、ワールド イズ ダンシング(三原和人 講談社)第3巻の感想です。

 

続きからネタバレ感想

第十九話~第二十七話を通した感想と、第二十八話単体の感想になっています。

 

第十九話~第二十七話

舞に限らず表現者であれば身につまされる話が満載でした。プロではなくても表現できる機会が増えた今、共感する人はたくさんいるのではないかと思います。

 

増次郎との舞勝負で鬼夜叉が突きつけられた「誰に向けて舞うか」という言葉。これはこの時点の鬼夜叉にはない視点でした。これまでの学びや気付きは舞う側からのものが大半だったように思います。客のことを考えたのはサツキとの商売の時くらいでしょうか。観世座では巡業を行っていたのだから、本気で取り組むのがもっと早ければ機会があったのでしょうが、その前に将軍の所に来てしまいました。

そんな彼が初めて誰かに教えてもらわずに舞に取り組む。それは確かにこれまでの先へ進む一歩ではあったのです(あとで犬王の指導を受けるけど)。しかし客に向けて舞うことはこれまでとはまったく違う方向の座標が必要で、鬼夜叉は持っていなかった。

 

外に広く開けた表現と内に深く掘り下げた表現、どちらも大切だと思います。深掘りするなら、問いと答えを繰り返したり、言葉で深掘りしていく方法もあるでしょう。鬼夜叉は今回、同一化でアプローチしました。それは彼がものまねを得意とする舞をやってきたから。

ひたすらに観ることを通して、対象の猫に近づいていく鬼夜叉。観る力が強化された影響でしょうか、彼は同一化の最後の壁として自分を見る自分の眼に気付きます。新しいスタイルを会得するなら、一旦徹底的に自分のスタイルを壊してみることが必要、という話はよく聞きます。自ら気付き、ためらいなく壊していけるところに鬼夜叉の優秀さと素直さが表れています。

最後のひと押しとして知らず飲んだ酒の力で壁を乗り越えることができるのですが…ようやくたどり着いた新しい境地、にしては「にゃにゃにゃにゃーん」はかわいすぎるとか、飲ませた人の「ごめんね」は「酒になってるとは思わなかったよごめんね」なのか「わざと酔っぱらわせてごめんね」なのか怪しいなとか(後者かな…)いろいろゆるくて笑ってしまいました。

しかし酔っぱらって辿り着いた境地は、自分と対象がひとつになったからこそ、自己陶酔という言葉のように危うさを含んでいます。他が見えない、ひとりよがり。

 

それでもそこまで辿り着いたこと自体がすばらしいことには変わりなく、一部ではあるけど、見た人の心を揺らしたことはうれしいし、優しい展開だと思いました。公家の一人が「いやこれすごいよな!」って思わず立っちゃったあとに周りとの温度差に気付くのがリアル。「こんなすごいの、もうすでに世間で大人気だろ!」って思ったら全然そんなことなくて驚いたりするんですよね。あるある。

一方、鬼夜叉のあまりの迫力に子供は泣いてしまいました。幸を願うはずの獅子舞でです。対して増次郎の舞では子供は喜んで笑っている。ここにもふさわしいかどうかという視点が抜け落ちていることが表れています。

自分をなくして新境地に辿り着けた達成感で、見せつけたいと思う強烈な自分が生まれてしまったのが皮肉です。

 

外に広く開けた表現と内に深く掘り下げた表現、客が求めるものと自分が求めるもの、適切さと表現の自由、いろいろ絡んだエピソードでした。これらは対立するものではなく、どちらも絡み合っていて、どちらも大事なのだと思います。

客に合わせてばかりでは自分の求めるものがすりきれるし、まったく反応がなければやる気も出てこなくなる人が大半なのではないでしょうか。人の反応なんて気にならない、自分は自分のやりたいことだけを発表する、という人もいるでしょうが、表現とは誰かに届いてこそだと私は思います。プロならなおさら。

ならどちらもないがしろにしてはならない。誤解、予想外、力不足、悪条件、タイミングが合わない、さまざまな「こんなはずじゃなかった」を避け、希望と擦り合わせる努力をすることは、客にも自分にも応える、両方にとっていいことだと思います。従来の舞以上のことができたのに、勝負の場に合わせて選んだ増次郎はそれができていた。

鬼夜叉がやっている舞はなにかを寿ぐもの、観た人によい揺さぶりを与えることを目的としたものです。なら客も自分も喜べるものを探さなければならない時期が来るのは必然だったのでしょう。

 

 

今回の件で鬼夜叉は増次郎に厳しい指摘を受けることになるのですが、技術も境遇も、すばらしいものを享受してきたはずなのにお前が使い方を分かってないせいで座の名前に泥塗ったわ、と言われるのは全否定よりきついですよね…実際鬼夜叉も負けを受け入れるまでにも時間がかかってるし、それからもどんどんダメっぽい方向へ行っちゃってるんですが、いままでにはない視点を手に入れて新たなステージへ進む機会だと思うので踏ん張ってほしいなあ。

 

 

今回、鬼夜叉が獅子舞を調べる中で、舞の中でも獅子舞といういかにも明るくめでたい印象があるものにも、生々しい土と血のにおいを感じるというのが最初は意外でした。しかし白拍子の死がきっかけとなって舞の意味を知り、新熊野で生を寿ぎ土から生まれる収穫を願う舞を知ってきた道筋を思えば、人々の営みにまつわるものとして土と血を感じるのは自然かもしれません。

一見、舞とは遠いような獣も、人より生死の際の近くで生きているととらえれば舞と繋がってくる。そんな見方も新しくて面白かったです。

 

 

第二十八話 そんな世界

敗者を一瞥し去っていく義満、目に焼き付けようとする鬼夜叉。違いは対立や溝を予感させるけれども、義満は世に自分の居場所を求める最中であり、勝者と敗者のはざまにいることに理解の芽があると思いたい。

ただ、何に重きを置いて自分と世界を見ているかの違いは今後影響しそうだし溝を深めるかも、とも思っていて。長い歴史の先頭、世界の一部として私がいる、と気付いた鬼夜叉に対し、義満は自分を世界に認めさせたい、と思っているんですよね。

 

生きづらさを感じ、居場所に悩んでいた鬼夜叉だから様々なカテゴリーの「外」にいる人への理解が早いのかもしれません。舞を通じ、世界との繋がりを持てたと思った後に敗北により新たな疎外感を抱く。

物語の最初からずっと底に流れている「居場所」や「勝者と敗者」などのテーマが、新たな場所で新たに知るエピソードを通じ形を変え見方を変えてあらわれて、全てが繋がった大きなうねりになっていく様子にゾクゾクします。

 

増次郎との勝負に負けた後、他人の視線は恐怖の対象として描かれていました。これは見られることが選別、ここに居るのにふさわしくない者としてふるい落とされることを意味していたのではないかと思います。

しかし今回鬼夜叉は存在したことを覚えておくために見ている。ふるい落とされた者を認める行為です。この転換には意味があるように思えました。

境界を越え、無から有を作り出し、この世にないものを表す行為としても舞は描かれてきました。ならばこの先、鬼夜叉は舞うことで舞を見る人の「見る」という行為も越境させるのではないでしょうか。選別ではなく容認、忘却から記憶へと。そのきっかけとなるできごとかもしれないと思いました。