さわやかサバイバー

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ワールド イズ ダンシング 第6巻感想

少年期の世阿弥を描く漫画、ワールド イズ ダンシング(三原和人 講談社)第6巻、最終巻の感想です。

 

続きからネタバレ感想

 

第四十八話 星

 犬王の舞の新しさや圧倒的な力を絵と演出で見せつけられる回。彩る音曲が雲となり、扇子を広げるさまが孔雀の羽のイメージとなり、舞うだけで観客も読者も天界に連れていかれる。

来たー!ワールドイズダンシングのエキセントリック演出ー!
「男にも女にも見える」「天上人の舞」といった言葉から、現世の枠組みを越えたような存在だという演出なんでしょうが、美輪明宏氏的イメージでバァァァン!には笑ってしまいました。キラキラはページを埋め尽くしているし、ポップな特大フォントまで添えられてるし。

 

そんな犬王の舞に衝撃を受ける鬼夜叉。孤独な点であった彼の世界は最初にいま同じ地上に生きる人たちとの繋がりという平面的な広がりがあり、次に過去から続く舞の流れ、それを未来に残していきたいという時間的な広がりを見せてきました。

そして今回、「この人は星だ」という言葉から、はるかな高みの舞を知って新たな広がりの軸を得たように見えました。x軸でもy軸でも同じ地点なのに、z軸で全然違うところにいる人を知って初めてz軸があることを知ったというような。

同時代、同じ舞というフィールドにいるのに、別次元の存在。いまは打ちのめされているようですが、きっとこの経験は鬼夜叉に新たな成長をもたらしてくれるだろうとワクワクします。

 

第四十九話 384400㎞

 かつて「最も自然な動き方」を教えてくれた犬王との再会は皮肉にも鬼夜叉を逆方向に向かわせてしまったようです。第二次性徴期の始まりかあ…それは調和とは対極にあるものだからなあ…

心と身体のままならなさが余計焦りを加速させてしまうんでしょうね。だけどそれで突っ走っては望む方向とはかけ離れてしまうのに。

犬王との再会も鬼夜叉自身の成長も、新しい世界への第一歩と言っていいはずなのに、それぞれのタイミングが合ってしまったせいで痛々しい第一歩となったのが見ててもつらいです。

思えば「やばいファン」の指摘は鬼夜叉の評判がどんどん大きくなることだけではなく、第二次性徴期の危うさも指していたんでしょうか。言ってる内容は鋭いもんなあ…言いかたがねっとりしすぎなんだけど…

 

サブタイトルの384400㎞というのは地球と月の間の距離らしいですね。ああ、全然近づけてないんだ…
「君ならわかってくれると思ったが…」ってまた過去にすれ違った人がいるようなこと匂わせるー!観阿弥なの?なにがあったの?

 

観客のなかに新熊野の手のひら返し二人組っぽい人たちがいるのは和みポイントでした。ずっと追いかけてくれてるんだろうか。すっかりいいファンになっちゃって。

 

第五十話 逃

 たくましく生きる少女サツキとの再会はあらあら~そういう感じに~?お年頃だものね~!思うさまニヤニヤしましたが、一方で「舞いたくないけど舞わなきゃ」と行き詰まっていた鬼夜叉を文字通り別の場所へ連れ出してくれたことは爽快でホッとしました。

手を繋いで逃げ出す、出会ったときのリフレインの中にも二人の成長が感じられるのがまぶしい。というか実際サツキの笑顔すっごいキラキラに描かれてる。かわいい~。ポーっとなっちゃう鬼夜叉もかわいい~。

サツキの成長を感じた後にわざわざ石の上に登ってちょっと高いところで休憩してるし。意識しちゃってえ。


子供たちだけとなってしまった村で祭のために舞を踊ってほしい、それがサツキの頼みごとでした。

鬼夜叉の舞が求められる、それ自体は御所の中と変わりはないですが、将軍お墨付きの付加価値で主に求められていたのとは違い、神への奉納という舞の原点を求められる経験は余計なものをリセットしてくれそうです。

 

卒都婆小町を通じてじっくりと昇華していった徳さんのときとは違い、コガネの死は淡々と過ぎて行ったなと感じたのですが、こういう形で残ったんですね。これから心の中の対話を通じ向き合っていくのかもしれません。

舞いたいのに舞えなくなったコガネのぶんも舞わなくてはならないのに、指針となってくれるかと思った犬王はスケールが違いすぎて目指す方向を見失ってしまった。ここでの経験で「舞わねば」がもう一度「舞いたい」になってほしいと思います。

戻るだけでなく、さらなる成長を期待していますが、絶望的な差を感じた犬王に食らいつけるくらい飛躍的な成長をするのか、彼とは違う道を見つけるのか、それとももっと違う展開になるのか、この先楽しみです。

 

第五十一話 初心

 世界で自分一人が抱えているように感じた苦しみが、思春期のありふれたものだったと気付くのは残酷で滑稽な面もあると思うけど、それが「みな同じだった」と開かれた共感につながるのがとてもよかった…

鬼夜叉が感じていた苦しみはおもに御所の中、そして舞という閉じた世界の中で感じていた苦しみだったから、その外で「自分だけではない」と気付けたことが救いになったんですね。増次郎は同世代だったけど、彼も舞の世界の人だったし。

これまでの描きかたからすると、鬼夜叉が目指している舞台とは舞台上から一方的に与えるのではなく、観客の中にある思い出や感情を引き出し一体となるものではないでしょうか。

とすれば、舞とは無縁だった人々と共感しあい「違うけど同じ」と感じられたことは、きっと彼の望む方向へ導いてくれる経験だろうと思います。

 

他人に教える行為を通じて自分が歩んできた道を振り返る、そして自分がしてきてもらったことの大きさに気付く、というのも外からの視点ですよね。客観だけど自分の中へ深くつながる気付き。これも閉じた世界にいただけではわからなかったこと。

孤独で世界が狭いと感じていた鬼夜叉が、彼の世界を広げ、あるいは深めていく物語が描かれてきましたが、これからも年齢や芸人としての段階が変わるたびにまた新たな壁にぶつかり、さらに広げていった結果が、時代を越えて伝わる芸術を作ったのではないかと感じられるエピソードでした。

 

第五十二話 初心 2

 変わる世界の中で自らも変わり続けることで存在し続ける。よく聞く言葉ですが、成長する心と身体の変化から自分のこととして鬼夜叉が気付いたその延長に、自分の死を経ても枯れない花を残したのだと繋がっていくのが感動的です。

能を大成した人の一人である世阿弥、という史実の中に彼個人のドラマが見えてくるんですよ…

歴史の流れの先端に自分がいることを知った鬼夜叉が、第二次性徴期をむかえて自分の先の歴史を意識するようになるのもとても自然。次代を残せる年齢になったからこそ、そこに考えが至る。
今回の村の子供たちも見方によっては鬼夜叉の弟子、鬼夜叉の教えを継ぐ次世代、とも取れます。

 

いまの自分の状態を確認し、ふさわしいありかたを模索し常に更新していくことはすごく難しい。過去話でも獅子舞の意味が失われ、ただ伝えられたままに舞っている人の話がありました。それを思えば「加え省きまた加え問い直す」を行ってきた父・観阿弥のすごさもあらためて感じます。

あらゆる要素やエピソードが有機的に繋がって、鬼夜叉が変化するたびに新たな側面を見せてくる構成が本当にすごい。かめばかむほど味が出る漫画ですよ。

 

鬼夜叉の指導にきちんと対価を払い経費を請求するプロ意識の中に、親愛の情をしのばせるサツキが愛おしいじゃないですか。『「借金」がまた会う約束!』というハシラがあたたかくて素敵だ。

 

第五十三話 永和三年

 「常に初心」ただそれだけを心に舞おうとすればするほど周囲との差が気になる鬼夜叉。うーん、いい感じで新境地に行けたように見えたんですが。そんなに気になるならいっそ一緒にやっちゃえば?とは思ったけど、誘導される道筋が怪しすぎる。

「ヤバいファン」はやっぱり二条良基だったんですね。といってもWikiで読んだくらいの知識しかありませんが。

エキセントリック言動ギリギリじいさんかと思いきや鋭い指摘をしてくるあたりからただものではない雰囲気でしたが、元関白の肩書をフル活用した政治的根回しも素早くてマジでいろんなレベルでヤバいじゃないっすか。

言動はともかく後ろ盾になってくれるのはたのもしい…と思ったそばから「もっといぢめないと!」なんでぇ!?なんで素直に見守る姿勢で応援してくんないの?出てくるたびにヤバいポイント増えてくよこの人。
鬼夜叉のパトロンやっかいな人ばっかだな。そういうのを惹きつける星の下に生まれたの?

 

純粋に芸の道を究めようとする鬼夜叉と自らの統治に芸術を利用しようとする義満という交わらない関係ではなくて、鬼夜叉には人々に認められ残っていきたいという野望が芽生えるし、義満も芸能への認識の変化が統治にも影響していく相乗効果がこの二人の関係にスリリングさを生んでいます。

芸人側に犬王、統治者側に二条良基が新たに入った構造にも見えますが、立場や思惑の違いから単純にどちら側と分けられるものではなさそうです。現に二条良基は鬼夜叉を支援するために参戦!なわけですしね。二人は鬼夜叉と義満の関係にも新たな影響をもたらすのでしょうか。

犬王こそ純粋に芸の道を究めたいタイプで、有名になんかなりたくなかった的なことを言ってたけど、今の状況どう思ってるんだろう。世間との乖離を感じながら割り切って舞ってるだけなんだろうか。だとしたら彼にも変化が起こってほしいですのですが。

 

新しく鬼夜叉の世話をしてくれてるシュッとした青年は新右衛門さんだったのね!

 

第五十四話 花言葉

 この作品での芸能は道半ばに終わる人々をも肯定するものだと描かれてきたと思います。だから究極を追い求める道筋も決して一人で完結するものではなく、繋げたその先にあるという答えはすごく腑に落ちました。全部繋がってる…

実力の及ばない犬王にも鬼夜叉一人で向きあう必要はない。猿楽のすべてに身をゆだねよと。鬼夜叉が舞を通じて自分も歴史の流れのなかにあると感じる場面はこれまでもありましたが、また新たな段階でそれを認識した場面だったのではないでしょうか。

 

観阿弥がそこに行き着いたのは道標を見つけた矢先に失ってしまった経験があったからかもしれません。一人の限界、自分の限界を知って、それでもその先へ行ける道を探した。

自分の座を作り広め繋いでいったのもその道の過程だと思うのですが、その時を描いた心象風景が犬王と同じ孤独を感じさせる宇宙空間なのが気になります。

星に例えられた犬王には同じレベルとこころざしで並び立つ者がいない孤独感を感じました。観阿弥のこの風景もまた星だとしても、彼は人々が見上げ指針となる星になろうとしたのではと、そんなふうに考えました。

二つの星が交信する日が来るのかな、なんて考えはロマンチックにすぎるでしょうか。
というか!そうなったいきさつをもっと詳細に教えてくださいよ!「決して気が合ったわけではない」と言っといて何年も一緒に舞ってたとか!そのあいだなにがどうなってこうなってんのよ!

体育座りの犬王のほうは見ないままで、よそった飯椀を差し出してあげてる感じのコマとか!なにがあったんですかあ!

 

第五十五話 二月の桜

 強烈ななにかを持たない普通の人間。だからこそ咲かせることのできる花を、という境地に至った鬼夜叉。なにもないとはいうものの、これまでの出会いを経て知った彼の世界はきっと外の世界と繋がる大きなものになっているはず。

己だけの力で大きな存在になった犬王とは違うスケールの広げかたですね。己だけでは到達できない地へも誰かがたどりつくと信じ、流れを作り自分もその流れに身を任す。かすかに芽が見える二月の桜がいつか咲かせる花を信じるように。

巫女的というか、器になるイメージなのかな。

 

出会ったとき、観阿弥より鬼夜叉の舞のほうが好きだと犬王は言いました。そののち彼の助言を得て鬼夜叉が舞った獅子舞は自分の世界に観客を引き入れる形の舞になりました。増次郎が「自分に向けて獅子を舞った」と評した舞です。

「ひとり己の内に進んだ」と観阿弥に言われる自分の舞に近いものを鬼夜叉の舞にも見たから好ましいと犬王は感じたのでしょうか。なら、いまの鬼夜叉の舞には何を感じるのでしょうか。

観阿弥の言葉に押されて至った境地。ですが、観阿弥も言っているように観阿弥と犬王両方の舞に触れた鬼夜叉の舞は二人と同じ道とは思えません。

鬼夜叉が感じてきたすべてが編みこまれたひとつの大きな織物になるようなすばらしい軌跡を見せてきてくれたこの作品がどのような集大成をむかえるのか、とても楽しみです。

 

第五十六話 葵上

 葵上を演じる犬王。力量は違うのでしょうが、以前彼の指導を受けた鬼夜叉の獅子舞を思い出します。舞い手が主導し観客に舞台の世界を見せる舞。しかし圧倒的であるほど、この後の鬼夜叉の舞はきっと違うものになるだろうと予感させます。

自分には強烈な何かはない、という境地に至った鬼夜叉の舞は舞い手が主導で観客の感情を引き出すものではなく、観客の内にある感情が呼び起こされるものになるのではないのでしょうか。
となればこちらで思い出すのは卒都婆小町。あの時つかみ損ねた「大きなもの」に近づけるのかもしれません。

「今この舞台上に 私以外いらない!」という犬王のモノローグも鬼夜叉の目指す舞と対比になるのではないかと思わされます。彼の魅力を示すように見開きいっぱいに咲く大きな花。華やかな反面、たった一輪、彼がいなくなってしまえばすべて失われる儚さがある。

あんなに大きな花なのに、なぜかさみしさを感じてしまう。実際に鬼夜叉がどんな舞を見せるかはわかりませんが、自分だけでは完成しないがゆえに多くの人が担い、また多くの人に引き出されていく花を目指すのなら、犬王の花もそこにあってほしいと思います。

そしてできれば犬王自身にもそれは喜ばしいことであってほしい。そうすれば一度分かれてしまった観阿弥との道が鬼夜叉を通じて再び交差することにもなるのではないでしょうか。読者としてはそうなってほしいと願ってしまいます。

 

第五十七話 幕間

 初めて面を付けて舞う重要な舞台に鬼夜叉が選んだのは父観阿弥が得意とした、そしてこの物語の始まりであった自然居士。予想できていませんでしたが、明かされるとこれしかないと思える選択で背筋がゾクゾクしました。

そこに「鬼ちゃん立派になって…!」な古参ファン被せてくるから和んじゃったわ。うんうん、成長を目の当たりにしたら感極まるよね。

 

「自分がたどり着かなくても誰かが花を咲かせる」観阿弥の言葉を受け入れた鬼夜叉は
犬王の圧倒的な舞台を見ても気負うことはありません。いつか咲く花の糧にしようと初面という貴重な機会を様々な人と和気あいあいと分かち合う様子は心温まります。

なかでもサツキに頼まれて舞を教えた村の子を舞台に誘っているのがいいです。あのできごとがトップレベルの世界に疲れた人間が素朴な人々に触れリフレッシュするなんて安易な逃避の物語にはなってないところが好きでしたが、もう一押しあるとは思ってもみなかったです。

村の祭りも人々の営みの大きな流れの中にある芸能のひとつ。鬼夜叉が自らの経験を通じ感じたことを積極的に次代に繋げようとしている姿にも成長を感じます。

最初は「わざわざ素人を参加させなくても」という態度だった田楽新座の人々が鬼夜叉の言葉を聞いてすんなり受け入れてくれたのもうれしい。この描写もまた芸術の裾野の広がりを感じさせてくれます。

 

ただ一人自分だけの存在感を見せつけ、舞台を降りても一人でいようとする犬王とは対照的です。しかしそれを孤立とは描かれてないんですね。彼の花に魅せられて支えたいと思う人が手ごたえを感じられたことも鬼夜叉とは違う継承と広がりの形だと思います。

 

現時点で将軍の権威を強めるために都合がいいのは犬王のほうじゃないでしょうか。いつ咲くかわからない花のために完成度を下げかねない素人を参加させる舞台よりも、現時点ですでに練り上げられており、人々が現実を忘れるほど惹きつけられる舞台。

しかし歴史を見れば…なのでそこをこれからどう描いてくれるのか、とても楽しみです。

 

第五十八話 ちからを

 早く短くが求められる今、私たちが古典としてよく知る能の遅い舞が「新しい形」として生まれる瞬間を目にする、この構造が面白い。未来の花のための幹となる、そのイメージを鬼夜叉はこの形に込めたのか…

少し前に能は昔もっと速いスピードで演じられていたらしい、という記事が話題になってましたね。ワールドイズダンシングで鬼夜叉が舞の速さを変えた理由は三原先生独自の考えなのでしょうが、これまでの展開を含め、とても腑に落ちる答えでした。

犬王のように、この瞬間満開の花を咲かせることはできない。だけどいつか誰かが咲かせる花のためにその土台となる幹のような舞を残す。極限までそぎ落としているぶん、わかりやすい華やかさよりも後の世まで届くような単純で力強さがある舞を。

これまで鬼夜叉が経験し感じたことすべてがこの答えに繋がっているんですよね。そうして生まれた能の形が私たちがよく知るものになっていく。ワールドイズダンシングという物語の初めからここまでの流れ、その延長線上に私の世界が接続された衝撃に震えました。

 

結果を知っている私はその形が残っていくことを知っていますが、物語時点でこの変革は相当リスキーだと思います。実際、自然居士の活劇を求める観客と鬼夜叉の舞に温度差を感じる描写があります。

鬼夜叉の思いは観客に伝わるのでしょうか。できないとなれば人の心を掴むための芸術を求める義満が庇護の対象に選ぶとは思えません。結果がわかっているのにどうなるか予想がつかないってすごい。心情的にはもちろん鬼夜叉を応援してますが、ここからどうひっくり返すの…?

 

「息子激熱!!」「俺眼福!!」突如出てくる観客席のラッパーに笑いました。
涙ぐむ古参ズ①にそっと手ぬぐい?を差し出す古参ズ②の様子もとてもいい…鬼夜叉のファンの彼らのファンだよ私が。

 

第五十九話 強い

 世阿弥の物語を描くのになぜ少年期を選んだのか。それは身体の大きな変化を初めて自覚する時期。身の内にままならないものを抱えながら、すべての時代のすべての年齢の人へ届くものを求めた時、普遍的な強さが生まれたのだと描くためだったのではないでしょうか。

モーニング連載時のハシラの言葉を借りると「よさを知り、敗北を知り、限界を知」った鬼夜叉の求める花は自分だけで完結するものではなくなっています。自分に咲かせられない花がある。それでも永遠に残る花が欲しい。だから多くの人が咲かせることのできる花の幹となろう。

そのためにはより単純でそぎ落とした舞である必要がある。そこでなぜ「遅さ」を選んだのだろうかと思っていたのですが、身体の奥に響く音をしっかりと感じ、押しとどめるためだったんですね。

心身の調和が取れないほどの成長の速さから来る痛みでさえ今の身体が響かせる音と受け取り、それも含めた今この瞬間の自分を表現する。それらをじゅうぶん感じ取るための時間をかける。

この時の鬼夜叉の痛みは成長にともなうものですが、年を取れば老化の痛みももちろんあるでしょう。それでもこの考えに基づいて舞うならば誰でも年齢に応じたその時の自分が表せる。「今の身体 今の初心」のちに世阿弥となって残した言葉にも繋がる考えだと思いました。

 

なにも持たない人に最後に残るもの。言葉に表せない感情を表す媒体。
たとえ外から見て欠けていたり均整が取れていなくても、今のその人自身にふさわしいものだと認識が変えられるもの。
鬼夜叉が見聞きしてきた身体の意味とそれを使う舞についてとてもいい到達点に辿り着けたなと感じました。

 

不調も含めて感じ取った大きな身体のエネルギーを押し込めて内に秘める舞。「いびつとも取れかねないズレが場に厚みを生んでいる」と言われていましたが、スムーズな非の打ち所のない舞にはない引っかかりがかえって後々まで印象を残しているのではないでしょうか。

それも不協和音であればただ不快で終わってしまうので、鬼夜叉がこれまで研鑽した技術が反映されてこそ成り立っているのだろうし、ここからもっと洗練させていくんでしょうね。

感じ取れない人にとっては見てられないトロい舞というのもわかるんです。パッと見た最初の印象ってそうですもん。だから為政者にとって「使える」のはわかりやすく人の心を掴む犬王のほうだと思うのですが…義満が鬼夜叉の舞にどう反応するのかとても気になります。

今回は特に感想というより内容と自分の解釈を整理する面が強くなってしまいましたが、そうやって考えるほどにひとつひとつのエピソードが有機的に繋がっているのを感じて感動する作品でした。ラスト1回、どう締めくくってくれるのか、寂しいですが楽しみです。

 

第六十話(最終話) ワールドイズダンシング

 自分の奥深くまで探ってこそ得られる能(はたらき)を「私」をそぎ落としても成り立つくらい純化させる。個人に依存しないから誰でも担える。ではそこに人はいないのかというとそうではなく、これまでとこれからの人々に広く繋がっている…

最終話、すごいところに辿り着いたなあ…
ここ何回かずっと鬼夜叉は舞をそぎ落とそうとしてましたが、舞っている「私」までをもだったのか。しかし残るものには鬼夜叉が学んだ舞、それまでの舞の歴史すべてがつまっている。

 

「俺達と違う同じ道…」犬王のこの言葉が鬼夜叉の舞の大きさと新しさを伝えてくれます。新しいけど、そこには父観阿弥の道も犬王の道も含まれている。観阿弥とは違う道を進むしかないのだと、割り切りあきらめたような顔で一人で究め続けていた犬王の目に輝きが宿ったことがうれしかったです。大きすぎる存在なあまり天上の星のような孤独を抱えていた彼を、鬼夜叉がもっと大きなもので包んでくれたようで。

犬王と同じ方向ではきっと不可能だったと思います。とても追いつけない才能だと描かれていましたから。まったく違う、それこそ新しい世界を作るほどの舞だからこそ繋がれたのではないでしょうか。
それが物語の初めに孤独を感じていた鬼夜叉から、というのがまた感慨深い…

 

義満が鬼夜叉の舞に抱いた感想は「わからん」でした。しかしわからないながらも、新しくまだ定義される前の「よさ」だとは感じている。自分で理解できないものでも受け入れる懐の深さはこれまでも描かれてきましたね。

そこにさらに鬼夜叉の「勝ち取ってゆく」という意思を感じたことが今後の庇護に繋がったように私には見えました。これまでにないもの、そして長く続いていくもの、どちらも既存の権力闘争のなかでくすぶっている義満が求める強さの形と通じるのではないでしょうか。

一方でこれまでにないものをこの世にあらわすにはリスクがあります。実現しなかったら意味がない。それでもここから生まれ広がっていくだけのエネルギーを受け取り共鳴したのではないか、現実的な彼のことだから、もちろんそれを統治に利用できる考えも込みで、と想像しました。

 

見開きの現代の能舞台に続く自然居士の姿。これは鬼夜叉であり「誰でもないひとりひとり」なのだと思いました。物語の中では根付かせられるかどうかまでははっきりと描かれなかった「よさ」が確立され広がり千年継がれたことを伝えてくれたのだと。

 

何度か書いていますが、ひとつひとつのエピソードが有機的に繋がりあっていく様子に驚かされる作品でした。最初から読み返せばきっとまた新しい繋がりを発見すると思います。

自分なりの解釈だとしてもそれらをひとつひとつ見つけていくのはとても楽しく、読み解くことでしか得られない興奮を与えてもらいました。物語は終わりましたがきっとまた何度も私はそうしていると思います。三原先生おつかれさまでした!ありがとうございました!